劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

怪物

夏公演で脚本と演出やる中石です。
とりあえず、一旦1行空けてからさして面白くもないことをダラダラ書き連ねます。
読むのめんどくさいなと思ったら、次の1行空きまで飛ばしてください。
なんかやたらとたくさん書いてんな、ということさえ伝われば、その後の文章を読む上では差し支えないです。

僕が初めて書いた脚本が、僕らの代の新人公演『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』です。このタイトルの由来は2つあって、1つ目は、2年前国立新美術館で開かれた「ダリ展」で見た《無題、あるいは分子の騎馬像》という絵画。2つ目はダミアン・ハーストという現代美術家の、ガラスケースを使った作品《一千年》。僕がダミアン・ハーストを知ったきっかけはというと、高校の頃の美術の先生が『美術手帖』という雑誌のハースト特集号を貸してくれたことです。『無題、あるいは〜』の舞台美術には牛骨を使ったんですが、この牛骨を貸してくれたのも同じ先生です。ちなみに、去年の夏公演『鴉神話』の舞台美術も僕がやったんですが、その時の木を模した装飾物の作り方を相談する時にも、僕は高校の美術室へ相談に行きました。この装飾、狩野山雪の《老梅図》をイメージして作ったんですが、僕が《老梅図》を知ったのは、日本の現代美術家村上隆による紹介からです。村上隆を知ったのは中学で最初の美術の授業なんですが、僕は中高一貫校に通ってたので、この中学はさっきの高校と同じ学校ということになります。この学校の隣には村上隆の運営する「カイカイキキギャラリー」というギャラリーがあって、ここの展示には今でもよく行きます。「ダリ展」をやってた国立新美術館は同じ学校から歩いていける距離にあります。同じく歩いていける距離には森美術館というのもあって、ここでは村上隆が3年前に「五百羅漢図展」という個展をやってました。話を『無題、あるいは〜』に戻します。この劇ではダミアン・ハーストの《一千年》を始めとして、いろいろな作品を引用しました。一部を挙げると、円城塔の短編「つぎの著者につづく」、ウラジーミル・ソローキンの小説『ロマン』、イタロ・カルヴィーノの小説『冬の夜ひとりの旅人が』などなど。円城塔は現在僕が一番好きな作家で、彼の師匠筋に当たる金子邦彦という教授が東大の統合自然科学科にいて、僕はそれがきっかけで現在この学科にいます。という自己紹介を学科ガイダンスでしたら、その話が金子邦彦に伝わってさらに円城塔にまで伝わったらしく、先日円城塔の講演会に行った時に「円城さんがきっかけで統合自然科学科に進学します」と発言したら、円城塔当人から「君か」と言われました。金子邦彦と昔一緒に研究していた池上高志という人も東大にいて、僕はこの人の授業を受けたことがあります。この人は渋谷慶一郎という作曲家と一緒にサウンドアートをやったりもしていて、僕が渋谷慶一郎という名前を最初に知ったのは『美術手帖』に載っていたボーカロイドオペラ『THE END』についての記事で、この時読んだ『THE END』のあらすじが、『無題、あるいは〜』の原型の原型を考える上でインスピレーションを与えてくれました。ソローキンの『ロマン』を知ったのは受験のために通っていた河合塾が毎年出している、おすすめ本の載っているパンフレットで、『ロマン』を勧めていたのとは別の河合塾の現代文講師と『ロマン』の話でちょっと盛り上がったことがあります。この先生は僕と同じ高校の卒業生で、この先生が企画した高校の特別授業を、僕はたまたま受けていました。この特別授業で舞城王太郎という作家を知ったのですが、この作家の『九十九十九』という作品の過剰なまでの入れ子構造は、『無題、あるいは〜』に影響を与えている気がするし、『好き好き大好き超愛してる。』という作品の幼稚な愛の謳い方に僕はとても共感していて、去年の冬公演『ダイアローグは眠れない』には同じ幼稚さがある気がします。河合塾のまた別の現代文講師からは木村敏の『時間と自己』を紹介されたことがあって、この本で参考文献として挙げられていた渡辺慧『時』もその後読みましたが、この本に書いてある時間論が、『ダイアローグは〜』の主要なテーマです。『ダイアローグは〜』の話を考える時の最初の着想は『冬の夜ひとりの旅人が』から得ました。あと、ソローキンの作品で一番最近邦訳された小説『テルリア』の設定は、今回の公演『竜骨の上で児戯』の設定を考える上で参考にしてます。『竜骨の〜』のテーマは椹木野衣の『日本・現代・美術』に負っているところが大きいんですが、僕が椹木野衣のことを知ったのは、彼が『美術手帖』に良く批評を書いてるからで、ちなみに村上隆の批評も良く書いてます。話を『無題、あるいは〜』にもう1回戻すと、この劇のやろうとしてたことは、僕がかつて読んだダグラス・R・ホフスタッターの『ゲーデルエッシャー、バッハ』に近い気がするんですが、大学入試の時、現代文の課題文がホフスタッターの別の著書『アメリカの反知性主義』の引用から始まっていて、驚いた記憶があります。とまあ、こんな感じで無限に続けられる勢いなんですが、一旦切ります。これちゃんと全部読んだ人いるんだろうか。

さて、『無題、あるいは歪曲するガラスケースの寓意。』から始めて、3つの美術作品、1つのオペラ、2つの展覧会、2つの美術館、1つのギャラリー、1つの雑誌、6つの小説、4つの評論、3つの劇、15の人名(数え間違ってるかもしれない)を数珠繋ぎしてみました。
これはほんの一握りで、その気になればもっともっと繋いでいける。
何が言いたいかというと、一つの作品なり人間なりが、どれだけ多くの他の作品ないし人間と、因果みたいなもので繋がっていて、そしてそれがどれだけ複雑に絡み合っているか、ということです。
そういう他の作品ないし人間の一つ一つにもまた、大体同じくらいたくさんの作品ないし人間が繋がっているはずで、しかもそれらの一つ一つに豊かな内実がある。
なんていうか、途方もない。ほんとに。
僕が1冊本を読むごとに、1本劇を観るごとに、この途方もない網目はまた一層絡み合っていくわけで、これだけわけのわからん怪物的な何かを紡ぎながら、なんやかんや僕という人間が前に進んでいっているように見えるのは、なんかすごい。
それを75億も抱き込んで平然としているこの世界の総体となると、もう想像すら及ばない。
怖いというよりは、ただただ「凄いなあ」という感じで、自分もその凄さの一端の一端を担ってる、というのが、短絡的ではあるが誇らしい。

今回の夏公演を観てくれる人がどれだけいるかわかりませんが、公演を観にやってきた一人一人の抱える怪物的な何かは、この公演のせいでより一層怪物的になるに違いなく、こういうやり方で僕は、劇団綺畸は、世界の一端を担っているのです。多分。

 

作・演出
中石海

 

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劇団綺畸2018年度夏公演
『竜骨の上で児戯』
作・演出 中石海
6/14(木) 19:00
15(金) 19:00
16(土) 14:00/19:00
駒場小空間
全席自由席
入場無料・カンパ制
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