ブログのテーマ何にする?……と尋ねられて、たからもの、なんて答えた一か月前の私を恨みます。たからもの、たからもの、たからもの。考えれば考えるほど分からなくなってくるだけでした。でもそんな中でいくつか思い出したことがありました。
「これはわたしのもの」という意識が人一倍強い子どもでした。7歳までひとりっ子で、部屋も両親もずっと自分のものだったからでしょうか。その後弟が生まれたことによる反動でしょうか。自分のものを断りなしに使われるのが大嫌いでした。リビングの片隅の一画に並んだ棚の文房具とノートとこまごました画材には誰にも手を触れさせませんでした。実家の私の部屋は、いまだにほぼ手付かずの状態で保存されています。
綺麗な紙製の箱に貝殻をためこむ子どもでした。木の小箱に集めてきたビーズを、ガラスのかけらを詰め込みました。ジャムの空き瓶にネジと六角レンチとセミの抜け殻をそっと積もらせました。かわいらしいアクセサリーがピンにいくつもかかっていました。スケッチブックに絵を描きためて、棚に何冊も並べてありました。家じゅうの壁に額縁や裸のキャンバスがありました。
私の、たからものたちです。
幼稚園のころからでしょうか、日常が唐突に壊れる瞬間を想像することがありました。たとえばリビングの私の席から見えるドアから強盗が入ってくる。夜中に突然火事が出て逃げ出す。大きな災害が起きてマンションが崩れてしまう。幼い私は自分の想像におびえ、そしていつも何をもって逃げ出せるかを考えました。特に大事な絵?詩や物語を書いているノート?お誕生日に買ってもらったワンピース?あの綺麗なお人形?でもやっぱりお年玉の貯まっているお財布は外せないかな?ああどの絵を持って出ればいいんだろう?私の短い腕で、どれだけ抱えて逃げられるだろう。やっぱり身一つで逃げるべきだろうか。逃げたとして、私の大事なものをすべて失うなら、私の生き残る意味なんてあるかしら。
「わたしのもの」への執着が、人一倍強い子どもでした。きっと今でも変わりません。物に対して、記憶に対して、人に対して、いろいろの小さな事柄に対して。小さな部屋の中で、わたしのものたちに埋もれてひとり息をしている……たぶん私ってそういう人です。
でも、「たからもの」か。ブログのテーマを決めてからずっと考えていました。私にたからものはあるかしら、と。
思えば思うほど形がぼやける。探せば探すほど消えていく。たからものってきっとそういうことばです。たからものかどうか、なんていう分類の何層も下の意識のなかにあるものなのでしょう。「これって私のたからものかな」というつまらない問いをもったとき、それはいつかのような純粋なたからものではなくなってしまうんだろうな。なんてうつくしいことばなんでしょう。残酷な、ことばなんでしょう。
たからもの、たからもの、たからもの。誰もがたからものを探している。あいすることに飢えている。もしかしたらいま私は胸まで水に浸り、深い、くらい淵のぎりぎりに立って、踏み込もうとしているんじゃないかしら。もしそうなら、もう私に「たからもの」はいりません。淵に沈みながら見上げる水面はさぞ、美しいでしょうから。
作・演出 / 宣伝美術3年
西山珠生
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劇団綺畸2021年度夏公演
『勿忘草』
作・演出 西山珠生
7月上旬配信予定
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