劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

からっぽ。

ベランダに出て、ひんやりと涼しい空気を、ぼんやり吸うだけの夜がある。
ずっとずっと遠くから、流れるような静寂が粛々と響いている。ただそれだけが、僕には聞こえている。

 

 


テレビ番組もYoutubeTwitterInstagramも、溢れる情報の波にもう飽き飽きとしてしまった。今日はコロナ東京何人だとか彼女ほしいだとか密ですラップだとか彼女できただとかZOOM授業きちぃだとか彼女に振られただとか、あーもう、うるせえうるせえうるせえうるせえなあうるせえ。静かな部屋でずっとひとりぼっち。硬質なガラスの向こう側から聞こえてくる様々な声が、考えるだけ無駄な思考と不安とを同時に呼びよせ、ストレスフルな日常の淵に僕を貶めていく。


だから、夜、ベランダに出て、ひんやりと涼しい空気をぼんやり吸う。
コロナの前も後もこれからも、きっと変わらないで、同じように流れていく空の向こうがわ。ずっとずっと遠くから、どおどおと、居心地の良い静寂だけが聞こえてくる。いつのまにか2時間経っていたりして、それでも、なぜだか時間を無駄にした気分にはならない。どうやら、この間僕は自分に酔っている。なんか書いていて面白くなってきた。自分に酔いすぎだ。ナルシスト。きっしょいきっしょい。こんな僕に嫌悪感を感じてしまった方、ごめんなさい、今度ぺこぺこ謝るので、もう少しだけ、お付合いください。

 


さて、「私と演劇」というブログテーマ。何を書こう。オンライン授業を通して慣れた手つきで、パソコンを開き、ログインする。あー、あしたの英語中級まじめんどくせえ。予習しなきゃ。そういえば最近、授業受けてご飯食べてちょこっと予習して寝るだけで、「演劇」らしいなにか、ほんとなんもしてねえな。そんな今の自分に、果たして「演劇」との関わりが語れるんだろうか。


でも、あなたの人生にとって演劇は不可欠か?と問われると、即座にNO と答えられる自信はある。


「演劇」を始めたのは高校からで、それ以前は本格的に観たことも興味を向けたこともなかったし(もっとも、文化祭の劇で“えんしゅつ“という大層な名前の役職に指名され、およそ教師の指示に唯々諾々と従うだけで、非常につまらなく“それ“に関わった経験はあったが)、高校で演劇部を引退してから約一年半受験にどっぷりと浸かる中でも、「演劇」がしたいなどとはお世辞にも思わなかったし、コロナ禍の今だって、「上演できない稽古できない演技できない」の苦難の三拍子にあっても、特段、「演劇」に対する溢れんばかりの熱情がふつふつ自覚されるようなことはない。演劇をやっている仲間から「早く稽古したいよね」とか「早く舞台に立ちたいね」とか言う言葉を聞くたびに、申し訳無いが、僕は苦笑いでやり過ごすことしかできない。だって、本当に素直にそんなこと思えないのだ。「演劇」をやっていない時間の方がはるかに平和で平穏で安定していて、表現に関わらないでバイトしたり勉強してたりする時間の方が、よっぽど目に見える生産性があるし、なんでそんなに心から「演劇」がしたいなんて思えるのか、正直わからない。そんな自分に心底がっかりするわけでもなく、結局「演劇」に対する思いなんかその程度だったんだな、と諦めてしまったりする。さらに、タイムラインに流れてくる「オンラインで演劇を上演しよう!」とか「ZOOM演劇やります!」とかいうのを見るたびに、僕はとっても辟易としてしまう。そこまで演劇に生を捧げる人間を、嫉妬と羨望と苦々しさの混じった極めて不純な眼差しで、ぼうっと見つめている。いや正確には“見つめて“すらいない。はやく目を背けたいがために、瞬時にスクロールしてしまう。そんな人間が、ここにブログを書くこと自体ふさわしくないんじゃないか。そう思いながら、なんとか今、筆を進めている。
「演劇」という玩具を誰かに取り上げられ、僕は泣きもせず驚きもせず、ただ諦めている。そんなこどものような自分を、書きながらはっきりと自覚してしまった。あーあ。演劇と関わり始めてしまってから、ずっとそんなことを考えてきたような気もするし、つい最近考え始めたような気もする。まあ正直、どっちでもいい。


けれど、けれど、とにかく僕は、僕の人生の中で演劇に出会ってしまった。どうやら、そんな事実だけは確実にあるみたいだ。今この瞬間演劇を必要としていなくても、これからずっと演劇を「絶対に要らない」と捨ててしまうだけの強さが、僕にあるだろうか。……筆を止めて考えてみる。簡単に頷けない自分がいる。結局、どっちつかずである。情けない。


「演劇」と対峙した時、いま、ここに現れてくるのは、ただ“からっぽ“の体だ。「演劇」はいまの僕にとっては何者でもない。残念ながら。ただの、空洞。空洞。空洞。


つか笑。こんな風に、「演劇」をつけはなして語ったと思ったら結局最後は「演劇」への愛を語って好感度あげておわるんだろ、みたいな、よくあるブログ。普通は大大大成功してから語るものだ。もし、この文章を、大ヒット作品を生み出した大劇団の作家が書いていたのなら(野田さんとか平田さんとか)、僕は驚きと尊敬の念に、どっぷりと浸かりながら読むのだろう。けれど、僕、橋本竜一郎は、小さな日本の小さな東京の小さな学生劇団の小さなヘボ役者に過ぎないのであって、そんな奴がこんな風に「演劇」をつけはなしてなにかを書こうとするブログ、たぶん単なる冒涜に堕してしまう。 でーも!でも!でも!でも、でもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでも……全部、全部、紛れもない事実なのだから仕方ない。誰に何を批判されようと、これが僕の今の演劇への思いだ。ああ悔しい。あ。悔しい、とは思えるのか。でも何が悔しいんだろう。演劇を必要とできないことが? 自分の軸を演劇に置けないことが? 自分が演劇を愛せないことが?……………ん? でも、待てよ。いつ、自分は演劇を「愛していない」なんて言ったんだっけ?
そうか、もしかしたら、僕は演劇をまだ愛しているのかもしれないし、いや逆に愛していないのかもしれない。ただ分かっているのは、2020年春の現段階で、僕が演劇を「必要としていない」事実だけで、それ以上でも以下でもない。微かに存在する(かもしれない)演劇への愛みたいなものを、ちょっとは信じてみてもいいのかもしれない。でも「必要としていない」のだから、信じる意味すらわからない。んー、随分回りくどい。
けれど、けれど、とにかく僕は、僕の人生の中で演劇に出会ってしまった。一回しかない人生の中で、しかも貴重な青春時代に、演劇にずぶずぶと関わってしまった。……運命、とか?、必然性、みたいなもの? 出会わざるを得なかったお導き、みたいなもの? が、きっとあるはずだ。ということは、僕は、演劇しなきゃいけないのか? え、なんだ、ほんとは演劇したいんか? 脚本書きたいんか? 舞台たちたいんか? もうー、わからんわからんわからんぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよ。ぐるぐる回る思考、あーもう疲れてしまった。今日はもういい。英語中級めんどくせ。とりあえず単位単位単位。明日のご飯何食べよう。そういえば、演劇する前に、僕は1日1日をちゃんと生きなきゃならない。おっほーい!!!!!!!!めんどくせーーー!!!!

 


……
そうだ、今日の夜もまた、外に出よう。ベランダから、ずっと遠くを眺めて、静寂を聞こう。今日演劇について考えたことも、全て忘れてしまおう。ナルシストだと思われたっていい。そんな自分に浸ることにきっと救いがあるのだから、そんなことほんとうに小さなことだ。
窓を開ける。なんか、いつものいい感じの夜だ。風。冷たい。きもちいい。ははははは。

 

 

 

 

 

 


あああああ。

 

 

 

 

 

 


やっぱ、演劇、してえなあー……

 

 

 

 

 

 


ベランダに出て、ひんやりと涼しい空気を、ぼんやり吸うだけの夜がある。
がらんどうの体から、1秒1秒丁寧に呼吸するその音だけが、虚しく響いている。

 


響いているのだけが、今の僕には聞こえている。

 


役者2年 橋本竜一郎