劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

演劇

このブログで「演劇」を書いたことがない。と気づいた。あれ、なんでだろ。不思議だな。

演劇について、劇団について綺畸について、メンバーと活動について書いた文章は山ほどあって、でも思えば私のものはなくて。などと思い出していると、2年間なにをしてきたんだっけ?とふわふわした状態になる。

だいたい、演劇じゃなければいけなかったわけじゃない。舞台に立つのは好きだけど、描くことに対するほどの執着心は持っていなかったし、舞台を観るのは好きだけど、映画のほうがずっと親しみ深い気がするし、舞台をつくるのは楽しいけど、たくさんの人と関わるってそれだけで結構なストレスだし。綺畸の活動だけにかまけているわけにもいかなかった。とにかくドイツ語が楽しくて、他の授業もちゃんと受けたかったし、進振りの点数も欲しかった。

 

なんで「演劇」だったんだろう。「演劇とかやってみたら」なんていう軽いことばに動かされて新歓をめぐり、綺畸につかまった、それだけ。それだけで——人生、狂ったかもなあ。

劇団綺畸にいるといつも、「演劇」について考えて考えて、そのつかみどころのないなにかをどうにか言葉にしようとするひとが視界の端をちらつく。演劇とはなんなのか、演劇をする意味とは、よい演劇とは、演じるとは。そういうひとは劇場に通い、よく学んでいて、耳馴染みの薄いことばをこちらに投げつけてくる。私にはないものだった。なんといえばいいのだろうか、ある意味羨ましかったのだろうか。そこまで「演劇」に打ち込めている感覚は、私にはなかった。「演劇」を理解できるほど、それを知らないと思った。それに身体や感情にかかわることを理性的に言葉にするのは私の得意分野じゃないのだ。「私は学問するというより、少し引いて客観視するより、あるいは理論化するより、なかに飛び込んでつくりたいひとなのかもしれない」と言って気を紛らわす。実際のところ、なかに飛び込んでそれとともに生きているひとは、俯瞰して言葉にすることをちゃんと知っているんだろうけど。

 

演劇——ここ数日、「演劇」の話を何度もした。どこからが「演劇」なのか。「観客」がいて、そして「演劇」がある、それはそうだと思う。そうすると、「観客」が「役者」の身体の演技性を意識するから「演劇」なのか。劇場において立ち上がる物語は観客と「同じ」空間内にありながら、観るひとの世界とは隔絶していると私たちはたぶん理解していて、でも舞台上の景色と自分とが重なり合い、溶け合い、あったはずの「境界」が消えるような感覚を覚えたりする。では「日常」のなかで自分が演技していると強く意識しているとしたら?「演じるわたし」と「観るわたし」は同時に在り得るのでは?

人生で初めて自分のことを言葉にし、それが役者の身体を媒体にシーンになるまでを眺めるうちに、不思議な感覚を味わうことが以前より明らかに増えた。日常生活の中で自分が舞台に乗っているような、無意識に「演技している」ような気分になる。本当に何でもない瞬間にそう感じて、ちょっと笑ってしまいそうになる。

どうにも整理がつかない。でも、言葉にしえないもの、一見相反するものが重層的にあるいは融合して、みえる、感じとれること、それがアートなんじゃないかな。

 

最近、そんなことを疲れた頭で考える。本当に、理性的な説明は得意分野じゃないのだ。ある人が言っていた、私は語るより行為するひとだと。働きかけはするが説明はしない、と。

どうだろう。ただ説明を必要とする場面がずれているだけかもしれないとも思うし、そんなたいそうなことなのか知らないが、しばらくはそういうつもりで生きようかしら。

 

 

西山珠生