劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

淵を呑む

コロナ禍の1日だけの小さな公演が終わった。

東京は梅雨に入った。

何もすることがない日というものを久々にかみしめ、べたべたと肌にはりつく湿気を感じながら、ああ、今日は小屋に行かなくていいんだ、あんなに毎日見ていた座組の顔を見ることもないんだ、ぼんやりと考える。

 

この公演で、私は引退らしい。2019年、私が綺畸に入ってから2年と少しが過ぎたらしい。何もできなかった2020年の夏公演から、1年の時間が流れたらしい。何の因果か脚本を書き始めてから、半年ということだ。なるほど、時が経ったのだなあ。でも、だから何だというのだろう。不完全燃焼の塊を抱えて、天井の照明を見上げる。言葉をもっと洗練させられていたら、私にもう少し経験があれば、あと1日時間があったなら。鬱々とした梅雨に、呑み込まれてしまいそう。

3夏だ引退だ、としみじみつぶやきたかったな。公演を終えて、目を潤ませたかったな。すべてを注ぎ込んだ、なんて言ってみたかったな。だからいろいろと思い返してみる。舞台を駆け上がり最上段から見据えた客席、照明の乾きスピーカーの振動、並ぶ椅子と消毒液、狭い稽古場の匂い、よれた台本、役者の顔、顔、顔、パソコンの画面、最初の設定を決めたときの高揚。それでも『勿忘草』に対しても綺畸に対してもそれほどセンチメンタルな感情は湧いてこなくて、まあ悪くなかったという自負心と、もっとできたという悔しさと負け惜しみと、次はこうしようという計画と、新しい舞台の映像が頭のなかを占めていく。春公演から数か月続くどうしようもない問い。なんで演劇をやっているんだろう、脚本を書いているんだろう。私は、これから何をしていくんだろう。答えが出るわけもない、きっと私が答えを望んでいない。だから私はまた、ずぶずぶと芝居をつくるしかないんだろう。怖いなあ、なにかをつくるって。

 

負けた経験があまりない。勝てる勝負しかしないから。思い知ることから逃げているから。そんな自分の凡庸さに私は捉まってきたのだ。

 

演劇が私にとってどういうものか、また芝居を書いてどうするのか、私は知らない。ただ、見たい景色が立ち上がるのはすさまじい快感で、私の見ている世界を人に見せるのはたとえようもない愉悦だ。しかもそれはだんだんと私の手を離れ、他の人々の力が加わって、いつしかそれ自身が何らかの意思を持つかのように出来上がっていく。そんな麻薬に、ひとまず耽溺してみようか。

 

 

2021年度夏公演『勿忘草』

作・演出 西山珠生