劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

終演ブログ

劇団綺畸冬公演「火咲く」終演いたしました。もう去年の話ですね。書くの遅くなって申し訳ありません。たくさんの人に来ていただき、これほど嬉しいことはありません。僕のこの世で一番尊敬している方にも見てもらうことができました。本当にありがとうございました。

 

あとは何より劇団綺畸のメンバーの方々、本当にありがとうございました。僕の意味のわからないメチャクチャな世界を舞台上に作り出すことができたのは、本当に皆様なおかげです。大好きです。

 

さて、疲れました。僕自身は4月に「劇団ド・パールシム」っちゅう自分の劇団を立ち上げる予定で今は新作を書いている真っ最中なんですが、大学の課題は終わらないし、あーもう死ぬ!!って感じで生きてます。あの公演の反省だって碌にしないで1ヶ月経って、人生なんも処理しないまま、あーこのまま死んでいくんだなーっと、ぼんやり、でも必死に生きてる。あっそう言えば作家になりたいなんて思ったことあったなって昨日あたりに思い出して、確か小3とか。死ぬのが異常に怖かった時期。死ぬのが怖いのにその気持ちをどう整理すればいいかわからなかった時。なんか死んでも残るものを作った方がいいなって、そんで作家になりたいなって。道具だったかもです、作品を作るってことが。で、今は?今はもうなんかよくわかんない。わかんないんだけど、やんなきゃなって。いや死後とか考えてる余裕ないし。そんなこと考えてる暇あるなら、戯曲を書けよ!読めよ!つーか早く課題やんないと留年するぞ!って。あー死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ気で生きてるな。意味ねえなこの人生。死ぬために生きてるな。

 

「うんことちんことまんこの話をしようじゃないか」って赤堀雅秋さんの『一丁目ぞめき』の挨拶文が吐くほど刺さって。この言葉だけで白米食えるなって。いつかこんなこと書きたいなって。こんなこと当パンにかけたら幸せだろうなって。多分僕の人生こっからあんまりいいことないし、どーせ死ぬし。じゃあ全力で「うんことちんことまんこの話」をしたい。『火咲く』はそんな上手くはいかなかった。考えすぎてしまった。あれじゃグラビア止まりだ。呂布カルマTwitterだ。悔しい。あー悔しい。死ぬ。死ねない。まだ。

 

でも「うんことちんことまんこの話」をすることが僕の生きる意味って言ったら、カッコつけすぎですけど。でもこれだっっっ!って思ったからやるしかない。仕方がない。生きるためだ。頑張る。そんなことを教えてくれた演劇には、そして劇団綺畸には感謝です。うんち。

 

なんか長々と意味わかならないことを、、すいません。にゃー。まあ要約すれば、次はもっと面白いもの描いてやるから待ってろよ!!!キランッ!ってことです。

 

最後にもう一度。劇団綺畸のみなさま、来場してくれたみなさま本当にありがとうございました!大好き!!

 


『火咲く』作・演出 新井孔央

刹那的にもなれない

火咲く、と聞いてぱっと思い浮かぶものは、まあ、推定6割くらいの人と同じで花火なのだけど、世の中には花火のようにパッと咲いて美しく散る生き方ができる人間とできない人間がいて、私は後者だろうなと思う。それは、私には圧倒的にエネルギーが足りていないから。熱にも光にもならない。私の胸に燃えているのはせいぜい嫉妬の炎くらいで、それすらも炎なんて呼べるほど立派なものではなくて、多分なんにも焼き尽くせない。

 

いつも誰かを妬んでばかりいる。芝居がうまかったり、佇まいが美しかったり、人から頼りにされてたり、積極的に意見を言えたり、何を言っても面白かったり、みんなに愛されてたり、真面目にコツコツ頑張れたり、何かに夢中になっていたりする人間が羨ましくてたまらない。でもその気持ちが自分を変える原動力になるようなことは一切なくて、ダメな自分には焦げ跡ひとつつかずにピンピンしたままのうのうと生きている。努力をショートカットして褒められたいとばかり思っているからいつまでたっても何もモノにならない。

 

演劇関係の人の前では勉強が忙しいふりをして、普通の友人たちの前では演劇に打ち込んでいるふりをして、いつも何かをごまかしながら生きている。同じように酸素を使って二酸化炭素を吐き出していても、赤々と輝きながら束の間のいのちを燃やしている人間と、ゆっくり錆びていくだけの私がいる。

 

劇団綺畸には、ちょっと学生とは思えないくらい素晴らしい作品を生み出すことのできる人間がいて、彼の求めるものを、あるいはそれ以上のものを出してきて応えることのできる役者とスタッフがいて、じゃあ私がここにいる意味ってなんなんだろう、私ってこの団体に必要? と思ってしまう。綺畸になんらかの貢献をできている気がしなくて悩んでいるのだけど、でも演劇に学生生活の全てを捧げることもできず、さりとてしっかり勉強しながら無理のない範囲で演劇を続けることもできず、結局中途半端にヘラヘラしたままだ。

 

こうやって葛藤しているふりをしながら、いつも言い訳ばかりしているから、一番大事な時にこんなはずじゃなかったって思ってしまう。本気になればもっとできるって言い続けて、結局不完全燃焼しかできないのも含めて私の実力なのだという現実に向き合えないでいる。でも、もし今からでも遅くないなら、もし許されるのなら、身を焦がして光を放つ一瞬を私に与えてほしい。

 

がんばるから。

劇団綺畸で自分の作品を上演するのは3本目になりました。3本の中で、特に前回の「朝露を待つ」を書いてる時に思ったこと、そして今作「火咲く」を書いていて僕が思ったことを書き残しておきたいと思います。自分の頭の中にあるものをとりあえず体系化したいだけです。

 

演劇を書くものも人間であり、またさらには登場するのも人間であるということを忘れてはいけない。そして書き手と登場人物は限りなく、知り合い、いやもっと仲の良い友達関係でなくてはいけないし、したがって書き手は登場人物のことを最大限愛していなければならない。またもっと言えば書き手は登場人物に愛されなくてはいけないのです。じゃないと、登場人物が書き手に本当の気持ちを教えてくれないからです。本当の気持ちを教えてくれた時に、いい脚本がかける気がするんです。

 

でも、書き手は登場人物の人生を完全に左右します。その点で書き手は限りなく冷徹非道でいなくてはなりません。自分が愛し、愛された人の人生をめちゃくちゃにしてしまうのだから。

 

そうゆう点で、演劇の書き手というのは変態だなってとっても思います。自ら望んで、好きな人を苦しめていく。コレは好きな人を監禁するのに似ているかもしれない。もしくは毒親思考。支配欲なのだろうか。それともいきすぎた愛?しかし、僕は演劇の内容どうこうに関わらず、演劇の書き手が登場人物に致すこの行為自体がとっても美しいと思います。

 

今回も11人にわたる人間の人生をめちゃくちゃにしてきました。全員のことを愛してました。みんな僕を愛してました。彼ら彼女らと僕の関係はとても良好だったように思えます。しかし、僕は彼ら彼女らの人生を壊してしまいました。

 

とてつもない快感でした。

 

「火咲く」作・演出 新井孔央

冬枯れと電飾

私の地元には有名な植物園があって、冬になると毎年イルミネーションをする。冬に植物が枯れてしまう植物園の素晴らしい経営戦略。枯れて葉っぱとか花が無くなっちゃった木はイルミネーションにぴったりだし。

 

このイルミネーションは地元の中高生の定番デートスポットで、冬になるとインスタのストーリーに「イルミネーション行きたい」という文字と、イルミネーションの画像、〇と☓の投票みたいな投稿が溢れる。

本当はイルミネーションに行きたいんじゃなくて、一緒にイルミネーションに行く人がほしい私達は、〇を押したり、でもちょっとわがままに☓を押したりする。

 

イルミネーションをやってるとき、植物園の中の開けた広場ではライブイベントがあったり出店が出ていたりする。少し斜面になっている広場の上の方に二人で座って、しっとり雑談をしながらライブを眺める。でかいスピーカーの音で聞こえにくくなるお互いの声を笑ったり、いつもより暗くて、だけど色んな電飾に合わせて変わる相方の横顔に見惚れたりしながら、ゆっくり過ごす。

 

高校2年生の時一緒に行った女の子は、冬枯れの木に寄り添って写真をねだってきた。カメラの中に映る彼女は枯れた木を補うようで、電飾の一部になってしまったようだった。

 

「そうじゃなくて自撮りで二人で撮ろ!」

 

そう言ったその子に腕を引き寄せられる。制服よりもモコモコして温かい感覚は、私が木になったようだった。

今日も推しは尊い

どうも。

文章を書き連ねるのは好きなんですけど、別に読ませるのは好きじゃないんで、自己満の塊で書いてみますね。保身とかなるべくしたくないんですけど、もうこの数行でもしてるなぁって。

まぁいいんですけど、いつも私がしてるみたいなそんな書き方してみますね。

 

あなたは私じゃないし、私もあなたじゃない。 何もかも違くて、強いて言うなら同じ日の同じような思い出を共有してるだけで。

そんなことだけなのに、わからないよって。

いつだったか相談された時に最終的な決断はあなただよって好きにしなよって言ったら冷たいって言われて。いやだって、どうすれば良いって聞かれてもね。でも親友だったから。もう5年くらい前のことなのにいまだに忘れられなくって。

いや、今も親友ですけどね。

 

自立したいなって。自立しなきゃなって。

誰かにすがるんじゃなくて。

私をわかってるって言ってくれたあの子も私の一側面しか見えてなくて、困らせた。別に離れていくとかじゃないけど、永遠だと思っていたものが違うかもって思えて、でもそんなことないって思いたい自分がいて。何度も選択を間違えるから。もう何もわからなくって、今もわからない。そしてこれからもきっと間違えてその度に知らなかったこと、知らないという事実を突きつけあって。先のこともわかりませんからね。全ては今を生きるしかないんですね、結局。

 

修学旅行の時、部屋決めで揉めたんです。

誰も私のことはわからないのに、私をわかっているかのように説得して、のちに同室になる子を傷つけちゃって。一瞬揺らいだ自分が悔しくて。説得してくれた子も私のこと思ってくれていたんだろうし、いや、「だろうし」とかわかったように使うなよって話なんですけど。自分を守れるのは自分だけだって。

ちなみにいまだにその同室の子に謝れてなくて、次の日から避けられちゃいましたから、そんなすぐ壊れるのかって思いましたけど、その子はずっと辛かったんだなって思います。知らないですけど。もう連絡取らないし、会わなくて、だからいまだにトラウマなんですけど。まぁ活躍しているみたいなので私のこと綺麗さっぱり忘れていてほしいです。また何年後かに会えたら謝ろうかな、とか、もう話さないほうがいいかな、とか、想像してます。

 

普通に書いてたら長くなりすぎました。当初はもっと書いてたんですけどね。

たまにもしかしたら他人をわかろうとしてないだけなのかもって不安になります。

 

長くなりすぎる癖はあります。必死に削ってみています。でも無理でした。

墓場まで持って行こうと思ってた話も、つい書いてしまいました、供養したくて。

でもだからどの言葉も必要だったんです。あなたにはわからないかもしれませんが。

 

冬公演、楽しみです、わたしも、あなたも、きっと。

植物みたい

小屋入り中、間違えて早く来すぎちゃうことがある。そんな時、真っ暗な駒場はドキドキに満ちていて楽しい。
コーンスープを買おうとコンビニに入って、出ると空が少し水色になっている。日が昇る速さは凄いなあと思うと、やはりメロスは健脚だ。
少しずつ、空の下の方から太陽に焼かれてオレンジに、金色になっていく。そういう空を眺めながら、時間通りにくる同期を待っている時間が好きだ。
ついに小屋入りです。よろしくね