上京当初、東京が嫌いだった。夜の明るさも、とにかく人が多いのも全然気に食わなかった。馴染まない土地への拒絶反応もあったけれど、俳句を書きに上京してなければこんなところ絶対住んでやるものか、とさえ思っていた。とはいえ、日常をここで送らなけらばいけないのは確かで、それには東京を知らねばならなかった。だから、歩いた。
好きか嫌いかはさておき、歩くには東京はよいところだった。まちごとの色がはっきりしていて、歩くうちにそれが変わっていくのがよく分かる。広い公園も多く整備されていて、時間の流れが多様なのだ。
街を歩くと環境がからだにふりかかるのを感じる。雑踏、客引き、街路樹、ストリートライブ。光る看板、巨大テレビ、店のにおい……膨大な要素が一気にこちらに押しかけてくるのだ。ときおり、その音や光を跳ね返すように言葉があふれだす。言葉と景色が動くからだを流れていく。
言葉は思いがけず場所の記憶に変わる。浅草の川に広島の川べりを思いだしたり、山手線の中で上京した日の桜にかかる光を思い出したり。その場所と思い出されることはすこし繋がっていて、遠い。
場所の記憶が現れるその一瞬、記憶の景の中に意識が挿入される。浅草から広島へ、現在から上京時へ、飛ぶ。
山手線、といえば上京の時にも乗っていたのだけど、前に一度山手線を歩いて一周したことがある。
同じ大学の4人が、ただ山手線を一周するためだけに集まった。総距離43km少々を14時間かけて歩いた。さながら都会版夜のピクニックである。出発地は渋谷。そこから内回りで恵比寿、目黒、五反田、大崎……と行った。そのときはまだ東京の記憶が乏しかったから何かを思い出すことはなかった。けれど、沿線の景を歩くことで、少しずつ東京か思い出す対象に変わって行ったように思う。ふいに電車の音に大塚で始発の走る音で聞いた記憶が呼び起こされたり、新宿南口にふと疲労困憊でたどり着いた瞬間が重なったりするようになった。
場所の記憶が現れるその一瞬、記憶の景の中に意識が挿入される。浅草から広島へ、現在から上京時へ、飛ぶ。
歩くことは場所を引き受ける行為なのだろう。引き受けた場所はやがて記憶になって、意識の間をついて現れてくる。そうしてあらわれた場所は半ば意識の一部だ。おおよそ一年の間、歩くことを通して東京が私の内部に再構築された。東京はもう異郷ではなくて親しい街になったのだった。
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劇団綺畸2016年度冬公演
『回想畸譚』
作・演出 岩崎雅高
12/22(木) 19:00
23(金) 19:00
24(土) 14:00/19:00
25(日) 14:00/19:00
於 駒場小空間
全席自由席
予約不要・カンパ制(料金自由設定制)
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