劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

供養

みなさんこんにちは。役者2年の橋本です。


有志ブログ…ということで、なにか書きたいなーと思ったんですが、その題材を探して過去の文章を色々漁っているうちに、こんなものを発見しました。
たしかこっちにきて、いくつか演劇を見始めて、一丁前に演劇について「語り始めたくなった」ころの文章だとおもいます。今読むと、違うだろっ!とか、ムチャクチャだな!ってツッコミを入れたくなる部分が多くありますが、一つの思考の軌跡としてここに供養しときたいと思います。まじで恥ずかしいんですが、「劇団綺畸ではこれだけ必死になって、目の前のものに食らいついていけるんだよ!」みたいなことを、わかってもらえたら嬉しいなって思います。実際今もなお奮闘の最中ですし、これからも演劇との奮闘は更新されていくことでしょう。そうした奮闘も、また機会があれば文章にします。


とりあえず下の文章は、そのスタートラインにようやく立てたある地点での、ある種記念碑的な文章です。


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「表現について」
演劇には2つの形態があると考える。観客に①「経験をさせる形態(experience)」と②「魅せる形態(performance)」の2つである。①前者experienceについて。どちらかというと自然な身体と日常性に肉薄した言語感覚を駆使して、観客を作品世界の中に丸ごと巻き込む。アングラ、小劇場演劇に象徴されるかたち。観客は作品に「共感」し、観劇中は思考を許されず、ただただ劇場の時間の漂いの中を流れていく。観客はこの時役者と同じ世界の中に身を置き物語を構築する一員になる、という「経験」をする。自分がいなければその回の舞台は完成しなかった、という自覚を得る。②後者performanceについて。日常とはかけ離れた身体性と発話の中で、感動店員・喜怒哀楽の発露を観客に促す形態。オペラやダンス、高校演劇等、大ホールで多く行われる。(観客と舞台の間には透明で大きなスクリーンがあるようなイメージで、観客は作品世界から隔絶され客席に座ったまま「見つめる」。
座組が自分たちが演じている形態がおおむね①と②のどちらの形態に属しているかを自覚しなければ、非常に中途半端でいわゆる面白くない演劇が完成する。もちろんドラマの精度が良ければその曖昧さが覆い隠され面白くなることもあるのだが、その時役者は戯曲の「操り人形」と映るのだろう。また思うのは、どちらの形態においても、あらゆる演劇で必要なのは「共感」であり、「もし自分がそうだったらきっとそうするよね!そう考えるよね!」という必然性である。最近観劇をしていて、「こうはならねえだろ」「こうは考えねえだろ」と思った瞬間、体がふっと舞台から離れていく感覚をよく覚える。
以上は、僕が考える演劇についての一般論である。これらを踏まえて自分が演劇人として目指すべき立場に言及するならば、それは圧倒的に①experienceの形態だし、その達成のために役者としてまず「共感」を呼べる演技をできるようにならなくては、という感じである。目立ちたいだとかかっこよく見られたいだとか、そういう理由で演劇を始めた人間なので、どうしても自然体で演技することに抵抗があり、強力な自我を持ったキャラクターを手癖ムンムンのまま立ち上げてしまう、というのが私の悪い癖だと自覚している。
しかし、問題なのは、experienceにもperformanceにも属さないような、詩的な舞台を目の前で展開されたときである。「意味のわからなさ」の中で、テクスト読解のような苦労を強いられ、そしてそれが正しいのかわかんないような不安に包まれ非常に気疲れする。アレはなんなのだろうか??おそらく私に読解力がないだけだが、考えることを求めて劇場に出向かないような人間は、何をどう受け止めて劇場を去れば良いのか。
たくさんの問題や論題を残しつつも、これからも私は演劇に大学生活を捧げていくつもりである。「絶対に演劇をやりたい」という気概を極めていく。誰に迎合する必要もない、自分は自分の「絶対に演劇がやりたい」っていう熱意をぶつけて劇に向かうし、「絶対に演劇がやりたい」って思ってる人と演劇がしたい。誰がやめていこうと止めない。自分はのこる。やりたい人間と残って、やりたいことをやる。1人になっても、やりたいから、やる。そういうスタンスを以て明日からも私は、明日の稽古に臨む。
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