劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

日誌屋の女の子

(以前送ったとても短いブログの詳細をお話しします。随分前に書いたエッセイをブログ用に若干の加筆をしたものなので、あしからず)

 

 私が小学六年生だった頃の話です。私のクラスには「日誌屋」を名乗る女の子がいました。

 誰しも学級日誌というものを書いたことがあると思います。私の学校では、クラスで隣同士の二人が日直を担当し、朝の会の司会や宿題のチェック、下駄箱の整頓など、さまざまな仕事をこなしていました。日誌を書くのもそのうちの一つです。

 当然、仕事の中には楽しいものとつまらないものがあります。クリーナーを使って黒板消しを綺麗にするのは大人気でした。たまに日直でない人がこの仕事を奪おうとして、小競り合いになることもありました。一方で、日誌を書くことはやや敬遠されていました。

 日誌にはその日の時間割や天気、温度、欠席した人の名前に加えて、「今日の良かったこと」を書かなければなりませんでした。この欄は最後の行まで埋めないと先生の印鑑をもらえず、帰ることができませんでした。日直になった人たちは、「別にいつも通りじゃーん」や「書くことなくねー?」などと不満を漏らしていました。悩みに悩んだ末に、「給食が美味しかった」や「体育が楽しかった」といった短い文をなるべく大きな文字で書き連ね、なんとかやり過ごしていました。

 私はこれを特に悪いことだとは思っていませんでした。「今日の良かったこと」なんて、つかみどころがなくて書きづらいもの。適当に済ませてしまうのは当たり前のことだったし、私が日直の時も同じようにしていましたから。

 ところが、小学六年生に進級して一ヶ月くらい経ったある日、今までにない変化が起こりました。

 その日は私の一つ前の席に座る二人が日直で、いつものように例の空欄に苦戦していました。女の子の方が頭を抱えながら「ねえ、ここ何書けばいいと思う?」と隣の男の子に問うと、彼はランドセルを背負って「悪ぃ俺、サッカーしなくちゃいけないから」と言って教室から走り去って行きました。

 一人残された女の子は振り返り、私の机に日誌を叩きつけて「ねえ、ここどうすればいい?」と迫ってきました。私は「僕もわかんないよ」と言って、それからしばらく二人で頭を悩ませました。

 すると、もう一人の女の子(「宮間」と呼ぶことにします。特に意味はありませんが、仮の名前です)が教室の反対側からやってきて「ちょっと貸してよ」と言うので、鉛筆と日誌を渡しました。宮間は鉛筆を受け取ると、迷うことなく文を書き始めます。

「職員室に荷物を運ぶ時、山本さんがドアを開けてくれました」

「クラス花壇のそばを歩いていたら、マリーゴールドがつぼみになっていて、もう少しで咲きそうでした」

 その字は小さくとても綺麗で、あっという間に空欄は一番下の行の左端まで、きっちりと埋まってしまいました。

「また困ったら言ってよ。私、得意だから」

 宮間はそう言い残して帰りました。日直の女の子は、これで私も帰れると言って、先生のところへ日誌を持って行きました。先生はルールにそれほど厳しくなかったので、宮間による代筆もそれほど気にすることなく印鑑を押して「日直お疲れ様」と言ったきりでした。

 それからというもの、宮間の書く日誌は瞬く間に評判となりました。先の日直の女の子が宮間の代筆をクラス中に言いふらして回ったからです。

 宮間はほぼ毎日のように日誌の代筆をするようになりました。帰りの会が終わると、日直の子が「宮間ちゃん、今日の良かったことはー?」と呼び寄せて、彼女が「はいはい、鉛筆貸して」と言う。そんな光景が日常になり、いつしか「日誌屋」という称号を得るまでになりました。

 実のところを言うと、宮間はもともと成績がよく運動もできて、クラス中心的な人物だったので、日誌のおかげで一躍人気者になったというわけではありません。またひとつ彼女の魅力が顕になって、彼女がより慕われるようになったというだけのことでした。

 

「星田さんが昇降口で自分の靴だけでなく、他の人の靴までかかとを揃えていました」

「店主のお婆さんが病気で閉店していたパン屋さんが、再開してい他のでとても嬉しかったです」

 学級日誌を受け取った先生は、印鑑を押すといつも教室の隅の教卓脇に引っ掛けます。

 放課後、私は誰もいなくなった教室にやってきて、密かに日誌を読むことが日課でした。当然、宮間の文章を読むためです。

「今日はモップ交換の日だったので、掃除がいつもより楽しかったです」

「大賀原くんが小野ちゃんにデザートのゼリーを譲ったのが、意外でびっくりしました」

 宮間は日常の小さな幸せを見つけるのが上手でした。私が何気なく過ごしている毎日も、彼女が過ごせば豊かさに満ちていることが不思議でした。

 「教室に落ちていたビー玉が丸かったので、嬉しかったです」なんていうよく分からない日誌を書いた時には、さすがにネタ切れかと思いましたが、筆跡をよく見ると彼女は本当にビー玉を心から喜んでいることが伝わってきました。

「坂田くんの鉛筆がとっても短くて、凄いと思いました」

「小野ちゃんと一緒に登校したら、あっという間に着いてしまいました」

 私は彼女の日誌のとりこでした。今でも内容を鮮明に覚えているのはそのためです。日誌を読めば、雑草の点々とする薄暗い一本道のように思えたその日にも様々な枝道があって、可愛らしい花や昆虫が隠れていたことに気づくことができたのです。

 ある日の夕暮れ、私が日誌を読んでいるところを宮間に見つかってしまいました。私はとても恥ずかしい思いをしながら、彼女の日誌を読んでいるんだと伝えると、私と同じくらい恥ずかしそうにして「読んでて面白い?」と彼女は言いました。

 徐々に私たちは一緒に日誌を書くようになりました。いいえ、一緒に書くというより、宮間が日誌を書くところを隣で見るようになりました。

 ただし、これは私が彼女にとって特別な存在になったということではありません。元々、彼女が「日誌屋」の仕事をするときには常に何人かオーディエンスがいて、私はその内の一人になれたというだけです。こっそり日誌を読む真似なんかしないで、最初からオーディエンスになれば良かったじゃないかと思うかもしれませんが、当時の私にとって宮間はとても眩しい存在であり、彼女を含むクラスの輪にはあまり入っていけなかったのです。

 注釈に注釈を重ねるようで申し訳ないのですが、彼女が日誌屋を始めてから一ヶ月たった頃には、私が彼女にとって特別な存在であるという自負がない訳ではありませんでした。というのも、観客は私以外にほとんど居なくなり、当初は立ち見だった私も、彼女の隣に座って彼女の手元を眺めることができるようになったからです。

 毎日のように、放課後の傾いた日が差し込む教室に二人きりで、今日の良かったことを考えました。彼女の横顔と、右手首についている黄緑色のミサンガがとても印象的でした。

 徐々に私にも提案ができるようになりました。非常にありきたりなことばかりを提案した記憶がありますが、宮間は毎回受け入れてくれました。「それはつまり、こういうこと?」や「君はそれでどう思ったのさ」のような質問を彼女は返してくれて、彼女なりに推敲されたものが日誌に乗りました。

 次第に今日は日誌に何を書こうか、これを提案したら宮間は喜ぶだろうかなんてことを常に考えながら生活するようになりました。私の小学校は中学受験をする生徒が多く、私や宮間も同じでした。塾から大量の宿題が出たり模試の判定が出たりと、普通の生徒なら精神的に辛くなる時期であったとは思いますが、私は宮間と日誌のおかげで心の平穏を保ちながら、適度な緊張感でお受験の勉強をすることができました。

 

 別れは突然でした。夏休みが始まる直前に、宮間が海外の学校へ転校すると知ったのです。しかも、知った日が別れの日でした。

 その日の日直が帰りの挨拶をしようとした時に、担任の先生が「ちょっといいかな」と口を挟んで、宮間を教壇の上に登らせました。彼女の口から語られた、留学、ボーディングスクール、インターナショナル、なんていう単語は私の頭をくるくると循環してから全てどこかへ飛んでいってしまいました。

 クラスメートのみんなも同様に驚いたようで、「どうして教えてくれなかったの」「お別れ会は?」と騒ぎたてたり、呆然としたりしていました。宮間は「ごめんね、ごめんね」と壇上から不平の一つ一つに向けてバツの悪そうな顔で謝っていました。

 帰りの会が終わった後も、しばらくの間、彼女の周りには人だかりができ、うろ覚えの住所を口にする女子や涙目の男子などに囲まれていました。

 私はショックを受けてしまい、宮間を見たくなくなってしまいました。黒いランドセルを背負うことなく、手提げのように右手にぶら下げて、教室を後にしました。

 夏休み明けの九月一日。当然クラスに宮間はいません。我ながら情けないことですが、私は彼女との別れを引きずってしまい、夏休みの勉強にあまり身が入りませんでした。「夏は受験の天王山」たる塾の文句にひたすら自己嫌悪を抱かせられる思いでした。そこそこ上手くいっていた受験勉強も台無しです。

 鬱屈した思いで自分の席についていると、目の前に一冊の青い本がずしりと放られました。顔を上げると、隣の席の女の子が不機嫌そうなのが見て取れました。どうやら私は今日の日直のようで、早朝の下駄箱整理をサボった(というか忘れていた)私を責めているようでした。「号令は全部やって。日誌も全部書いてね」と言い捨てて、どこかへ去って行きました。目の前の青い本は例の日誌でした。

 ぼんやりとした私の頭に、その言葉は入ってきたのです。九月一日のページを開く。「今日の良かったこと」の欄に薄く書かれた文字。

 

――任せた!

 

 直感だったのです。私は「日誌屋」の二代目にならなくてはいけないということが。

 誇らしい気持ちでした。学級日誌があたかも自分のためだけにあるような気分。

 九月一日より前のページを見れば、彼女と過ごした日々が蘇ります。不思議なことに「今日の良かったこと」という項目しかないはずが、思い起こされるのは楽しいことばかりではありませんでした。

「最後まで走り切る野原くんはかっこよかった」

 彼は、徒競走なんて本当はやりたくなかったんだ。

「田町さんは、どんなに大変でもトイレ掃除の手を抜きません」

 彼女だけの仕事じゃなかったはずなのに。

 宮間は人の良いところを見つけるのが上手いと思っていまいした。実際にそうだとは思いますが、それだけが「日誌屋」の顔ではなかった。身の回りで起こるちょっとした不幸を、裏返して(ともすると美化して)日誌に書き記すだけ。その行動に、どこかおまじないらしさ、あるいは無力感を見出せないでしょうか。これは単なる推測ですが、宮間は自分を慰めるために書いていたのかも知れません。ひょっとすると、他人にひどく共感しやすい性格で、自分を保つためのメモだったのかも知れません。

 九月一日から後のページには、空白が広がっています……。

 

 「日誌屋」になることは想像以上に大変でした。日誌を書くことではなく、日誌にありつくまでが難しかった。クラスの人気者である宮間ならまだしも、その辺の冴えない男子が日誌を代筆する道理なんぞありません。お察しかもしれませんが、私にはそこまで人望がなく、話したことがほとんどないクラスメートもそれなりにいました。そんな彼らに向かって「日誌、僕が書いておくよ」と言い出すのはやや憚られることだというのは分かってもらえると思います。

 窮余の一策でした。かつて私が宮間の日誌をひっそりと読んでいた時と同じように、放課後の空になった教室へ忍びこむ。そして、すでに書かれている「今日の良かったこと」を消しゴムで擦り、私が書き直す。

 人目につかないところでコソコソと行動するのが、どうやら私の癖のようでした。それにしても、宮間に出会うまでの行動と別れた後の行動が一致してしまうのは、いつまで経っても変わらない自分を突きつけられているようで少し悲しかったです。

 こうして私は一応「日誌屋」を続けることができたのですが、人が頑張って書いたものを毎日のように消して、自分の文章で埋めていくことはあまり褒められたことではありません。

 先ほど多くの生徒は例の欄をないがしろにしがちだと書きましたが、全てがそうだというわけではありません。中には今日の出来事に対して、真面目に向き合っている文章もあったのです。それらを消し去るのはとても心苦しいことでした。

 秋が深まるにつれて、木々の葉っぱは薄くなり、生徒たちは厚着になっていきました。

 その頃になると、徐々に私の「悪事」が表沙汰になってきてしまいました。宮間と仲の良さそうだったアイツが、放課後に毎日何か小細工しているらしい。日直の書く文章が気に入らないらしい。私の知らないところで自分について言及されるのは、当時の私にとってやや怖いことでした。朝の会の前や授業間休みの時に、それらしき言葉が聞こえてくると、その内容が気になるような逃げ去りたくなるような、むず痒い動悸を起こす感じがしました。

 最初のうちは雑談の話題がなくなった時の、何気なく口にする噂程度のことでした。それが良くない方向に動き始めたのは、秋も終わりに差し掛かった頃です。

 宮間には、大倉というやや仲の悪い女の子がいました。大倉は二学期の代表委員を務めていて、こちらもまた勉強と運動が得意な子でした。彼女は何かと宮間の意見にケチをつけたり、テストの点数や体力測定で張り合ったりしており、二人の悪きライバルのような関係性はクラスではおなじみでした。宮間が「日誌屋」だった時も、彼女だけは自分で書くと言って譲りませんでした。

 とある昼休み。彼女は日誌を指差しながら、

「ねーえ、ウチがせっかく書いたのに、勝手に直されてるんだけどー」

 それを聞いていた周囲の友達は日誌を見て、

「『給食の準備がいつもよりはやく出来ていた』だってー。おもんな」

「なんかあいつがやってるらしいよ」

「あー、宮間にちょっと馴れ馴れしかったヤツ?」

 そう呟いた大倉は、少し離れた席に座っていた私の方を一瞥しました。その目は心底つまらなそうでした。

 その日を境に、いたちごっこが始まりました。「ごっこ」という響きは気が抜けてしまいますが、当時の私にとっては真剣なことでした。

 放課後の委員会が終わった後に教室へ戻ってくると、教卓の脇にあるはずの日誌がありません。教室を出る時には確かにありました。教室をしばらく見渡していると、縦長の掃除ロッカーの上に青い背表紙が見えました。大倉たちの仕業だと直感しました。

 上靴を脱いでロッカーに登り、そこから手を伸ばして本を回収します。今回はすぐに見つかったからいいですが、大倉の取り巻きの鞄に忍び込まされたり、女子トイレに持ち込まれたりなんぞしたら手のつけようがありません。対策として、放課後の間は教卓のすぐ横に張り込むようになりました。

 日誌を隠す隙がなくなると、今度は私が書き換えた内容をさらに大倉達が上書きするようになりました。その内容は先生にチェックされることがないので、粗雑な文字で汚い言葉が並んでいました。仕方がないので私がボールペンを使うようになると、修正ペンを持ち出してくる始末。

 冬休みも目前に迫った頃、ついに私と大倉達は、真っ向勝負で日誌の奪い合いをする羽目になりました。

 黒板の前で日誌を握る私を取り囲むように、大倉と二人の女子が並んでいます。近いとも遠いとも言えない妙な距離をとりながら、お互いに沈黙。大倉は両手を腰に当てた左右非対称のポーズで、侮るような顔をしながら、無言の圧力を放っていました。

 私は意を決しておもむろに歩き出し、大倉のすぐ隣を抜けて教室の扉の方へ向かいました。一瞬、私は勝ち誇った気分になって、胸が熱くなりました。私は自分の使命を真っ当するんだと、再び心の中で叫びました。ところが、自分が彼女らに背を向けたことに対する恐怖感がたちまち広がり、寒気を覚えました。後ろを振り向きたくなる衝動にかられるも、私は出口を見続けて歩みを止めません。

 ……あたりが白くなりました。同時に後頭部へ強めの衝撃。それから深く咳き込みました。何が起こったのか、振り返ると足元には黒板消し。宙に待っていたのはチョークの粉でした。大倉の隣の女子は投げ終わった姿勢のまま固まって、私を睨んでいました。

 女というものは、周囲の合意が取れれば何でもやってみせるものなのか。そんなことを思いながら急いで立ち去ろうとすると、後ろから大倉が飛びついてきました。組み合った二人は体勢が崩れ、地面に倒れ込む寸前。咄嗟に伸ばした私の左手が掴んだのは、壁に貼り付けられた学級目標ポスターの端。模造紙ごときが二人の体重を支えられるはずもなく、ポスターは派手な音を立ててちぎれはて、画鋲が数本飛び散りました。

 大倉は、うつ伏せに倒れた私の上に覆いかぶさり、私が床と腹の間に抱えている日誌を奪おうとします。

「代表委員に逆らうな!」

 大倉は一学期のクラス代表委員選挙で宮間に敗れたことを思い出しました。こんな理不尽な腹いせを受けていることが苛立たしい。

 黒板消しを投げた女子が、羽交締めにされた私の腕から日誌をひっぱり始めました。私は教室の汚い床に思い切り両腕と額と本を押し付けて抵抗しましたが、あっけなく引き抜かれてしまいました。このまま引き下がってたまるかと、寸でのところで日誌のページを掴み返します。二人が両側から本を引っ張ればどうなるか。当然、ポスターと同じように。

 商店街では、スピーカーからクリスマスソングが流れていました。局所的に派手なイルミネーションとシャッターの閉まった店との対比が、地方らしさを強調しているようでした。

 黒いランドセルを背負った一人の少年が泣きながら歩いています。右手にはくしゃくしゃになった紙の切れ端、左手には不完全な本。ここで「一人の少年」と言いましたのは、筆者の気恥ずかしさによるものです。

 あの後、大倉達は流石に日誌が破れたのはまずいと思ったのか、三人揃ってそそくさと教室から逃げ去りました。残骸が散らばった教室に、下校時刻を告げるチャイムが鳴ったのです。

 商店街の冷たい道を歩きながら、私はあの言葉の意味を考えていました。

 

――任せた!

 

 あれは一体、何を任されたのか。少なくともこんなことじゃない。私は勝手に「日誌屋」を名乗って独りよがりなことをしていただけでした。そんなことをしていて楽しいはずもありません。その上、段々と心に余裕がなくなっていくものだから、内容もつまらなくなっていました。まったく、目も当てられません。

 宮間がいた頃は、彼女と日誌の周りに人が集まり、とても穏やかな雰囲気でした。彼女の言葉はクラスのみんなを励まし、活気を呼び込んでいました。嫌なことがあっても、大変なことがあっても、もしかしたらどこかで宮間が見てくれているかもしれない。奇妙な安心感に、クラスメートのみんなは支えられている。少し突飛な感覚が、共有されていたような気がする。

 結局、宮間は私を勘違いしていたのです。彼女の期待に沿うことは、はなから無理なことで、ただクラスの雰囲気を悪くしただけでした。

「荷が重いよ……」

 そんなことをボソリと呟いて、どこかわからないアメリカの方角を眺めました。

 次の日の朝、セロハンテープで補修された日誌を持って教室に入ると、私が遅刻ギリギリに到着したこともあり、クラスメートはほとんど揃って着席していました。

 教壇の前には大倉が立っていました。彼女はやや強い口調で私の名前を呼んで、

「あいつがやったんです」

 と演説調に言い放ちました。

 私は数泊置いて、その意味を理解しました。私が日誌に何かしらのこだわりを持っていたのはなんとなくクラスに伝わっていたので、大倉の言説は同級生達にとってそれなりの説得力があったように思います。

 ただし、所詮は日誌です。クラスを揺るがす大事件というわけではいし、大倉が憂さ晴らしをするためだけのイベントに過ぎません。ですが、クラスの大勢と先生の視線を浴びることは、私にとって酷く苦しいものでした。日誌の表紙を盾に、自分をみんなの目から断ち切るようなポーズをとった記憶があります。

 大倉は私から盾を奪い取って、先生に返しました。

「先生、日誌の代筆を禁止にしてください」

 と彼女は言いました。絵に描いたようなしたり顔でした。

 私は納得しました。宮間がこの教室を去った後、彼女の質感はこのクラスに残っていました。体育でバスケのミニゲームをした時は「宮間さんがいないと、いまいち盛り上がらないね」と声が上がる。算数で誰も手が上がらない時、先生は「宮間がいないと解けないかな?」なんておどけてみせる。そして、私が日誌にこだわっている。

 大倉はそんな宮間の残り香が憎くて仕方なかったのかもしれないな、そんなことを思いました。

 先生は困った顔をして一つため息をつくと、教室を見渡して、

「みなさん、日誌は日直の人が責任を持って、書きましょう」

 先生は右手に日誌を持ち、私に背を向けて教卓の方へ去っていきます。遠ざかっていく日誌が不思議と宮間の後ろ姿と重なりました。私は呼び止めるように、

「えっと」

 と漏らしました。席に戻りかけていた大倉は、くいとこちらを振り向きます。クラスの視線も集まります。どういう言葉を続けるつもりかなど、全く考えていなかったのですが、

「日誌は、真面目に書いて、書きましょう」

 まるでドミノを並べるみたいな話し方でした。クラスのみんなは「当然だろ」と思わせたい、とぼけたような顔をしていた気がします。大倉だけはちょっと眉を顰めていました。

 

 あれから、私は代筆をしませんでした。自分が日直になったときだけ、心を込めて書くようにしました。

 小学校の卒業式がやってきました。中学受験は失敗しました。大倉も同じ中学を受けて、失敗したようでした。お互いに、小論文の内容の代わりに、どうでもいいことを沢山考えたからでしょう。

 どういう因果なのか、卒業式当日の日直は私でした。去年の四月一日から日誌をめくってみれば、一年なんてあっという間であったことがわかります。三ヶ月の間だけ間宮の丁寧な文字が並び、その次の三ヶ月間は僕の無骨な文字が並ぶ。そしてまた、多様な文字が並ぶ。そして、今日。

 天気は晴れ。温度は二十三度。欠席なし。授業もなし。大きく「卒業式」と書く。そして「今日の良かったこと」の欄。その隅っこに、見覚えのある文字がありました。

 

――お疲れ様

 

 当時の僕は、その言葉に対する答えを、持ち合わせてはおりませんでした。

 

 あれから九年の月日が経ち、僕は私になりました。「あなたの大切にしているもの」という題を与えられて今、作文をしています。

 あれから一度も間宮にあったこともなければ、連絡を取ったこともありません。今どこで何をしているのか、全くわかりません。

 残されたものといえば、「最後の一ページ」という存在が、私にとって不思議と魅力的なものとなったことです。あらゆる本の最終項。大抵は何も書かれていません。ですが、そこに歓声や祝福を感じてしまうのです。

 

 

宣伝美術・伊豫冬馬