劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

いそぐ

今回は努力というお題らしいが、、なかなか書きづらい。多分あんまり興味がないんだろうな、と思う。努力という言葉は、行動を評価するための言葉だろう。客観的に存在するのは、「何かをした」という行為の事実だけで、そのことを「努力した」とするか否かは主観的な評価に過ぎない。自分は生き急ぎ野郎なので、そういう評価を受ける暇があったらその時間で次の行動に移る方がいいと思ってしまうんだろう。

 

急かされながら生きているのだが、そういう状態が嫌いなわけでもない。何に急かされているのか分かっているし、急かされなければ達成できなかったことはいくらでもある。のだが、しかし、コロナはだいぶこたえた。なにをする自由もない中急かされるのは今までに味わったことのない苦痛だった。焦りだけがひたすら積もって何もできない。あのときだけは、努力という言葉にすがろうとしていたかもしれない。

 

そんな状況の中読んだのが、「ゴドーを待ちながら」だった。読んでいた当時のノートにメモしたあったポゾーの台詞を引用してみよう。

 

(急にカッとして)くそったれな時間の話で俺をいじめるのは、いい加減にしてくれ!いつのことだ!とか、いつからだ!とか。ある日、それじゃ足りないのか?いつもと同じ、ある日じゃ。 ある日あいつは口が聞けなくなった。ある日、わたしは目が見えなくなった。ある日、わたしたちは耳も聞こえなくなるだろう。ある日、わたしたちは生まれた。ある日、死ぬ。いつもと同じ一日、同じ瞬間。それじゃ足りないのか?(少し気を静めて)女たちは墓穴にまたがってこどもを生む。日の光が束の間瞬いて、そしてまた夜が来る。(ロープを引いて)進め! (岡室美奈子訳)

 

誰も評価なんてしてくれない、相手にもしてくれない、努力なんて言葉は誰もいない自室にむなしく消えていくだけの、薄く、平べったく、冷えた鈍色の水飴のように広がった単調な日々の中で、この台詞は一際暗く僕の記憶に居座り続けた。なんて不吉な言葉だろうと思ったが、なんて恰好いい言葉だろうと思った。強い言葉だと思った。

 

こういう言葉に自分は支えられていたんだと思う。敢えて一番暗い言葉を口にすることで、逆説的に勇気づけられることがある。ちょっと話は違うが、ネイティブアメリカンの本当に優秀な予言者は予言が当たらないのだという。予言の言葉が強過ぎて事実の方がそれから逃げてしまうのだ。僕は言葉の力は本当はこういうところにあるんじゃないかと思う。言葉を発するという行為は単に情報を伝達することではない。ベケットも、来るのかどうかもわからないゴドーを延々と待ち続ける二人の男を描きながら、自分をどうにか鼓舞して生きていたのではないかと、根拠もなく想像する。僕もそういうことをしたいと思う。もちろん明るい話とかもいろいろ書くけど。生き急いでいる感覚と、斜に構えたニヒルな視点で、特にコロナ以後、自分はバランスをとって生きてきたような気がする。

 

結局努力の話をほとんどせずに今この文章を書き終えようとしてしまっているが、好きな作品について書けたので満足している。願わくは、いつか来ると思っているゆっくりできる日まで、努力という言葉とは無縁にせいぜい生き急いでいたい。