劇団綺畸稽古場ブログ

劇団綺畸は、東京大学と東京女子大学のインカレ演劇サークルです。名前の由来は「綺麗な畸形」。

破道の九十 『黒棺』

私は他人に好意を伝えることがかなり苦手だ。普段から口数が多い方ではないし、多分相手を褒めるためのボキャブラリも豊富ではないだろう。けれどもその一番の障壁になっているのは「自分から投げかけられたこの好意は相手にどう捉えられるんだろう」といった問いが、言葉が喉まで出かかった瞬間に頭をよぎってしまう悪癖だと思う。

 

別にそこまで卑屈に生きているつもりも無いのだが、自分とのコミュニケーションを会話の相手が煩雑に思っていないかがとにかく気になってしまう。もしもそう思われていたのであればそんな相手から投げかけられた言葉は好意を伝える類のものでも軽く流されてしまうだろうし、思われていなかったとしても「急にどうした?」と思われてしまうのが関の山だろう。そんなこんなで話し相手に対して何か思うことはあれどそれを直接伝えることはほぼ皆無だし、何かしらの形で表に出すとしてもせいぜい次の日の夕方ぐらいに本人に気づかれないギリギリのラインまで希釈してそっとTwitterに放流する程度だ。オタクくん!!!!?

 

けれど本来「相手自身への好意を伝えるための言葉」を使うのって相当慎重になるべきことなのではないかとも思うのだ。いや別にオタクのくせして一丁前に硬派ぶってるとかそういう感じじゃなくて。一例を出すとしたら、「好き」って多分便利な言葉なんだろうなと思う。元々の言葉の意味が強い分だけその気になれば挨拶も感謝も誤魔化しもコイツ一本で済んでしまうんだろう。ただそこまで色んな用途で使われしまうと、その人の発する「あなたのどこそここう言うところが好き」という言葉はこのとき本来の用途で使われているにも関わらず、なんとなく味気ないものに感じてしまう。乱用されたことで段々摩耗されていった言葉が元の意味の強さを失ってしまうのだ。というように、辞書的に強すぎる意味を持った語彙を日常的に使い続けていると、いざここで!という場面でその言葉を使ったときに本来それ自体が内包してくれているはずの「重み」を発揮してくれないのではなかろうか。藍染惣右介も確か似たようなこと言ってた気がするし。

 

事実、周囲の人間に躊躇いなく好意の言葉を振りまけるタイプの人たちはすごいと思うし素直に尊敬するけれども、ずっとそれを見ていると不思議とその人のあらゆる言動がインスタントなもののように感じてしまうことが往々にある。あまりに勿体無い話じゃないだろうか。感情を伝達するのに言葉を選ぶ必要があるのってその時点で100%の出力ができない欠陥仕様なのに、それを媒介するための適切な言葉を選んでなお重みが失われてしまうのであれば最終的に相手に届くのは元の何割なんだろうか。少なくとも自分はどうせ相手に好意をもって伝える言葉だったら可能な限り自分の中身の100%に近いものをお届けしたい。ので、私は相手に伝えたいことが先述の「キモいって思われたらどうしよう」フィルターを突き破ってしまうようなときにだけ、少ない語彙を搾り出して「本来好意を伝えるために使われるべき言葉」をそのままの用途で使っていきたいと思う。

 

というわけで、いま私が大切にしている、あるいはこれから大切にしていきたいものは「好意の言葉」です。